偏見と主観をまぶした異文化紹介ブログ
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サリンジャーが死にました
少しだけ、懐古を
僕がサリンジャーに会ったのは、高校1年か2年の頃でした
何かの本があって、ライ麦畑でつかまえてがそれにお薦めという形で載ってた
僕はその本を借りにすぐに学校の図書館に行きました
図書館には、白水社のあの青と白のカバーに、ピカソのあの絵を表紙にしたあの本があった
読んでみて、僕は特に何の感慨も持たなかった
代弁者だとも思わなかった
オーバーだ、と
ただそう思った
そして読んだことすら、すぐ忘れた
この点についての考えは今でも変わらない
現実の若者の心象風景とは、ほど遠い
ライ麦畑でつかまえては、ただオーバーなだけなのだ
僕は高校を卒業して、一年間浪人をした
それから上京して、大学に通い始めた
大学を卒業して、半年だけだけど勤めをした
その間に、色んな人間に出会ったけど、それはどうでもいい
面白い人も、しょうもない人もいた
そうやって年を重ねていくうちに、僕だけの意味がライ麦畑に募っていって、それはいつの間にかかけがえの無い本になっていた
それは読書量が増えたり、理解出来るものが増えたからでは決してない
僕がライ麦畑でつかまえてをすきになった理由は、ただ、思い出が増えて、若い時代が、過去のものになったからなんだと思う
僕は、年をとった
そして過去を眼差すようになった
それはもう、オーバーに改竄を重ねながら…
サリンジャーが死んだことは、少なからずショックでした
サリンジャーは最早過去の人だったけど、それでもサリンジャーがまだ生きているという事実は、僕の生きている世界に微かな正当性を与えていたような気がするから
でも、僕はきっとサリンジャーの死なんてすぐ忘れるし、彼の生死に関わりなくサリンジャーの本は僕の本棚に並んでいて、これからも、まだまだ何回も読むと思う
ライ麦畑でつかまえて、は俗にいう青春文学なんかではない
あれで何かを思い出すか
昔を懐かしむことが出来るか
ライ麦畑、確かに多くの人が読んでいると思う
でもサリンジャーが死んだって、わざわざ世間がそれを悲しむことはない
だって、ライ麦畑を本当に好きな人が世の中にもっと多いのなら、僕はきっともっと世間をすきになれる
すきな友達が、もっと沢山いるはずなんだ
ライ麦畑は、凝集した現在性だ
瓦礫となった過去を眼差す、歴史の天使だ
それは、僕の本だ
ありがとう。左様なら
かっこつけすぎたー
写真
左から
60年代、70年代、80年代、90年代、00年代、英語版のライ麦畑
ナインストーリーズ
フラニーとゾーイー
ニューヨークで1ドルで買った(というていの)赤いハンチング
00年代以外は野崎孝訳(90年代が2冊出払っていて不在。本当はライ麦畑でつかまえては8冊持ってるんだよ。ほんとうだよ。)
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